PTSDの諸葛孔明

借金もち、留年確定ながら自分の手で道を切り開くためにもがく大学生の人生逆転ストーリーです😄

PTSDと戦いながら挑戦しているあなたへ

どうもこんにちは!
PTSD諸葛孔明と申します!

僕は作業療法士の方からPTSDと言われ、過去の家庭環境により人とコミュニケーションをとることがうまくできないと言う十字架を背負ってここまで過ごしてきました。

この記事ではそんな僕がどうやって、個人で編集者やイベンター、コミュニティ運営者になったのかをそのノウハウと一歩踏みだす勇気を僕と同じ・似ているバックグラウンドを持つあなたに向けて発信していければと思い、この名前で、このコンセプトで改めてnoteを始めることにしました!

少しでもあなたの背中を押すことができた記事であれば幸いです!

 

1.幼少期の家庭環境

僕は生まれた時から、父親型の祖父母が亡くなっており、母がたの祖父も亡くなっていました。

なので、生まれた時の親戚は両親と母の姉と従兄弟と母型の祖母くらいでした。

しかし、母の姉は金銭的に困っていたみたいで、詐欺などを働き我々とは絶縁をしていたみたいで、僕はお会いしたことがないのです。

つまり、必然的に従兄弟にもあったことがなく、実質祖母くらいしか親戚がおらず、一人っ子の少年でした。

父は過去に経営をしようとして失敗した反動からか、僕が生まれた時は無職で、母親の仕事によって生計が成り立っていると言う状況であったみたいです。

昔からヤンキー気質があった父に育てられたもので、食べるのが遅かったキレられる、少しイタズラしたくらいでタンスの中に入れられ、脱水で死にかけるくらいまでほって置かれた、トイレが我慢できずに漏らしたら、思いっきり蹴られたりするなどビクビクしながら毎日を過ごしていました。

なので、早く大きくなってここを出ていきたいと思うようになったのはとっても早かったです。

今考えれば、小学校の授業などでも、全く手を上げることができず、通知表にも自分の意見を言えるようにしましょうとずっと怒られていました。

自分の心の中にある想いを外に吐き出すことが昔から苦手で、それは一生付き合っていかないと行けないものになっていました。

2.何かを変えないとやばいと思った高校〜大学生

大きくなるとだんだん親は僕に何かを言ってくることが少なくなり、父とは口を一切聞かない疎遠状態になっていました。

高校は一応地元で一番偏差値は高い進学校に入学し、1年目から学校を辞めさせてくれと親に懇願したのを覚えています。

と言うのも、やはりコミュニケーションをとるのが怖くて、友達を作るのにものすごい時間がかかったからです。

クラスに馴染むことなんて到底できずに半年くらいが経ちました。

その学校がいい人が多かったと言うのもありますが、なんとかある程度は馴染むことができて、一定数友達はでき、少しずつ学校に馴染んでいきました。

学年を上げていくにつれて、

『何かに挑戦したい』
『このままの自分を変えたい!』

と思うようになり、読書や学校祭の実行委員などを始めました。

そこで、学校の全校集会でゲストの方をまねき講演を聞くと言う授業があり、そこで、現在、地上波や数々のYouTubeコンテンツなどでご活躍されている『落合 陽一』さんがいらっしゃって、彼の講義が高校時で唯一寝なかった講義でした。

本当に興味深くて、僕の心にぐさりぐさりと刺さりまくっていたのを今でも覚えています。

そこから、地元のTSUTAYAで落合陽一さんが書いた本をよく読むようになりました。

最初は放っている言語が高度すぎて、本当に何を言っているのかが分からないんです。

でも、何度も読んでいくうちに高校生の僕でも理解ができるようになり、意識のレベルと思想のレベルが1段階上がりました。

その中でも特に意識していたのは、

一つのことに10000時間努力の時間をかけたら1/100の人材になれる。
それを3つ掛け合わせたら1/1000000の人材になれる。

落合 陽一氏

つまり自身の希少度が上がってポジションをとることができると言う内容でした。

これが当時の僕が優先順位一番上で持っていた思考で、とにかくいろんなことに挑戦して
僕だけのポジションを取ろうと考えました。

今思えばこれが僕を大きく変えたきっかけだったのかもしれません。

3.挑戦することに特化した大学生時代

とにかく挑戦すると決めた僕は月に15冊程度のペースで本を読み漁りました。

趣味の一つに読書を入れて、それに10000時間かけようと決めていたからです。

更に、当時はゲームが好きだったので、FPS系の銃で打つゲームをひたすらやっていました。(単純にセンスがなくてすぐ辞めました笑)

最後一つ何にしようと考えていたのですが、その当時別の本でレバレッジと言う簡単にいえば、小さい力で大きい力を動かすてこの原理みたいなものに興味を持っていて、SNSがその一つになるのではないか?と考え、Twitterのフォロワーを増やすという活動をしていました。

これが19歳〜20歳の時です。

その後Twitterのフォロワーさんが1000人を超えたし、読書も飽きてきたから何か別のことをしようとどんどん挑戦をしていくマインドになっていました。

物販をやったり、SNSインサイドセールスをやったり、村で大規模なイベントをやりLINEニュースに掲載されたり、ラップのMCバトルに出場したり、ブログをやたり、動画編集をやったり、コミュニティ運営をやったり、人材斡旋を個人でやったり、YouTuberをやったり、YouTuberのアシスタントをやったり、マルチ商法に片足を突っ込んだ時もありました。

その中で、やっぱりPTSDの作用は邪魔で本当に序盤は戦いまくる日々でした。

人と話すときに異常に緊張するし、コップの水はこぼすし、自分の意見を一切言えず終わる時もあったし、それでも諦めず自分の中で、今日よかったことや学んだことをPCに書き出して、細分化して自分のものにするという繰り返しをしている中で掴んだものが生きて今、このような成果を残すことができています。

4.まとめ

つまり何が言いたいかというと、世の中の人間は初めから環境が違くて、スタートラインは違います。

でも、それって今思えばありがたいことだったんだな〜って思います。

スタートラインが後ろの方だったおかげで、僕は必死に前にいる人達を追いかけました。

その結果助走が走り出す筋力が他の人よりついてしまったので、かなり前にリードすることができたのではないか?と思います。

なので、あなたは今の現状を一度受け止めましょう。

辛い気持ち、戦ってきた気持ちはわかります。

本当にお疲れ様でした。

でもここで止まってはダメです。

その乗り越えた筋力は必ず、人生の血となり肉となり返ってきます。

一点注意してほしいことがあります。

PTSDに限らず、この記事に辿り着いている方はきっと何かを変えたくて、この記事を読んでいると思います。

正直僕はまだ24歳の若造です。

そんな僕でも、ここまで来れたのは

『自分のコンフォートゾーンを外してきた』

からだと思っています。

誰でも、居心地の良い環境にいたらずっとその環境にいたくなりますよね。

でも、そこにいても成長しない。

なんのデータも取れない、レジリエンス能力も上がらない、挑戦する心を失い可能性がある。

もし、何かを変えたいと言う思いが少しでもあるのであれば今の環境を変えてみることから始めてみてはどうだろうか?

皆さんの挑戦が成功することを心の底から願っています。

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